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邪馬台国の女王・卑弥呼の墓の最有力候補として注目される奈良・桜井市の箸墓古墳で20日、専門家らによる初めての立ち入り調査が行われた。
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今回、許可されたのは古墳のすそを1周歩きながら、表面を観察するだけだったが、所々に土器などが散らばっている様子が確認でき、この古墳が築かれた年代の研究に役立つという
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我が国最初の統一王朝とされる邪馬台国(やまたいこく)。
その女王:卑弥呼(ひみこ)が、今再び注目を集めている。
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この写真は女王:卑弥呼に扮した若い女の子達のコンテストの入賞者なのだが、僕はこの話題に触れる時、常常不思議に思う事が有るのだ。



そもそも、我が国最初の統一王朝に関する記録が、余りにも残されていない為、現在でも邪馬台国の所在や、それどころか女王:卑弥呼の存在さえ伝説的である。
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では、その存在を伺わせる記述や記録を何処に求める事が出来るのか?

それは、お隣の中国の歴史書「三国志」の内の「魏志」つまり、今から1800年も前のお隣の国の正式な歴史記録(著述者は陳寿)に頼るしかないのだ。



この事自体、実に不可思議だろう。
我々日本人は、何故自分達の歴史の発端の重要な記録を、他国に頼らなければならぬのか・・・??

お隣の歴史書には、実に数百人以上にも上る武将の記録が、その詳細な行動ばかりか氏名や人物像や性格までが著述されていると言うのに、我が国には今となっては邪馬台国やその最高統治者であったはずの人物の記録は、全く存在しないのだ・・・。



つまり三国志の内の、三国の内最も強大な権勢を誇った魏国(ぎこく)の歴史に付いて著した計30巻に上る「魏志」の中の、「東夷伝倭人之条(とういでんわじんのじょう)」に、我が国最初の統一王朝である邪馬台国とその女王である卑弥呼に付いての記述を、やっと求める事が出来るのだ。

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※我々が中学校の社会科の教科書で習った「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」と言う呼称は、実は正式名称ではなく通称名に過ぎない事を付記しておく。
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これは、我が国のNHKのテレビ放送の人形劇ドラマ「三国志」にての覇王:曹操(そうそう)。
劇中でも、後半場面では側近や部下からは「魏王陛下(ぎおうへいか)」と呼称されていた。
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そして魏志の東夷伝倭人之条に拠れば、中国が1800年前に三国鼎立の乱世を迎えていた頃、日本(倭)では、「倭国大乱」と呼ばれる戦乱を治めるべく、邪馬台国の女王:卑弥呼を共立して30余の国々による連合政権が成立していた。

卑弥呼は宮殿に籠って「鬼道(きどう)」と呼ばれる卜占を行うシャーマン(神官)の様な存在で、卜占の結果を伝えられた彼女の弟が政治を執行していたとされる。
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魏の司馬懿(しばい)が遼東地方を制圧した翌年の239年、狗奴国との対立を深めていた邪馬台国は、魏の後援を得て連合政権内の基盤を強化する事などを目的として、帯方郡に大夫の難升米(なしめ)らを派遣。
その後、難升米は魏の首都:洛陽まで赴き、魏の明帝(曹叡:そうえい→曹操の孫に当たる)に生口(せいこう:奴隷)と斑布(はんぶ:麻の布)を献上している。

この時、明帝は難升米に金印紫綬や銅鏡を下賜した他、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を与え、邪馬台国の後ろ盾となった。
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っとこんな所だが、不明で謎で分からないからこそ、後の世の時代の我々の様々で色々な想像を掻き立てる壮大な歴史ロマンと言った夢の有る側面も、この話題には大いに有ろう。


我々日本人の始原や原初、或いはルーツと言ったものに、僕はキリスト教やバッハ音楽やルネッサンス絵画などのキリスト教文化である西洋文化への傾倒を経てブーメラン的軌跡や螺旋状の回帰とも呼ぶべき思索的経路を辿って着地した。


そんな気が自分でずっとしているのだ。